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No. 52~健康で文化的な最低限度の生活~|大分県中津市弁護士中山知康




1 物心ともに満ち足りた、不安のない生活を送りたいというのは多かれ少なかれ多くの人が抱いている感情というか本音だと思いますが、少なくとも「健康で文化的な最低限度の生活」は送りたいですよね。

  安心してください。わが日本では、最高法規である憲法25条に明記されています。

日本国憲法第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
             有する。

         2項  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公
             衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

ちなみに、英文では、

Article25 All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.

In all spheres of life, the state shall use its endeavors for the promotion and extension of social welfare and security ,and of public health.

となっています。

2 例えば、病気で働けなくなったとか、何らかの事故で重い障害を抱えてしまったといった場合でも、少なくとも健康で文化的な最低限度の生活は営みたい、営めるような社会であってほしいというのは、大昔から人間が、特に権力者ではない、一般の庶民、つまり、社会の大多数を占める社会的経済的弱者が抱いてきた願いの一つだと思います。

  こうした願いを正面から受け止め、人権(社会権)として宣言したのは第1次世界大戦後のドイツのワイマール憲法が初めてですが、それ以前の18世紀半ばから後半にかけて、イギリスで工場法が制定されるなど社会権誕生の胎動はありました。

しかし、人類が社会権を人権として享有することが確認されるまでには、第1次世界大戦という悲劇の終結を待つ必要があったのです。

  冒頭の日本国憲法25条は、その思想をさらに進めて、生存権を明確にしました。日本国憲法の生存権と同じ趣旨は、その後の国際人権規約などでも明確に定められています。

3 このように現在では、日本を含む多くの国で、すべての人が、様々な事情によって自らの力では健康で文化的な最低限度の生活を維持できなくなった場合でも、それを確保することが現代国家の責務であり、固有の人権であることは自明の理となっています。

  もちろん、こうした理念を実現するためには莫大な予算を伴いますので、私的経済作用には極力干渉しない小さな政府を目指すのか、それとも福祉国家を理想として大きな政府もいとわないのか、その国、その社会、そして時代ごとに考え方は大きく変わりえます。

  ただ、日本では、時代に応じて若干の濃淡の差はあったとしても、戦後一貫して、福祉国家として社会福祉・社会保障政策には注力してきたはずですし、そのための税金を徴収し、予算も講じてきたはずだと思います。

4 しかし、と思うのです。

  先日発生した札幌での自立支援施設といわれている住宅での火災と多数の死傷者の発生を聞いての感想です。

  まだこの施設やその運営母体がどのようなものだったのか、民間のボランティアの延長として低廉な費用で高齢者や生活困窮者に住居や食事を提供していたものなのか、それとも一時問題となった貧困ビジネスと呼ばれるようなものなのかも今のところは分かっていません。

ただNHKなどで報道されているところを前提とすると、住居と食事の提供、就労支援、それらに携わるスタッフの人件費といったものを考えれば、ほとんどボランティアに近い団体だったのではないかとも思えるのです。

仮にそうだとすれば、我が国の生存権はどこに行ってしまったのでしょうか?

5 もちろん現代社会では、生活困窮者や高齢者のための施策は、国も地方公共団体も多様に展開しています。

  しかし、それでは足りずにさまざまな民間のボランティア団体やNPOが活躍していることも公知の事実です。

  もちろん、貧困ビジネスと称される悪質な業者が跋扈する闇の部分もあるのでしょう。それにはそれで、対応する必要がありますし、捜査当局や補助・助成する行政の側の監視体制も強化していく必要があると思います。

  しかし、元を正せば、高齢者や生活困窮者の健康で文化的な最低限度の生活を維持する責務は国、そして、地方公共団体にあるはずです。だって、憲法で約束しているのですから。

  それを民間のボランティア団体で担い、でも、費用が足りずに安全対策が講じられず、今回のような事故が発生したのだとすると、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利など全く保障されていないのではないかと思ってしまうのです。

6 今回報道されている事件でもう一つ心配なのは、良心的なボランティア団体やNPOの活動が委縮するのではないかということです。

  生活困窮者や高齢者、障がい者や相対的貧困にあえぐ児童らの健康で文化的な最低限度の生活を保持すべき責任を負う第1次的な主体はいわずもがな国と地方公共団体です。しかし、それでは人手もお金も足りず、民間のボランティアで賄っているというのが現状でしょう。

  もちろん、民間のボランティアやNPOに活躍してもらうのは、自助・共助という観点からすれば望ましい方向ですし、なんでも税金で賄えばいいというものでもないでしょう。そんなことをすれば、税金も足りないのは自明の理ですし、なによりも全てを公に頼るというのは、裏を返せば、公の権力を強め、私生活に干渉される危険も強めるだけだと思うので、危険極まりないと思うからです。

  それでも、と思うのです。

なぜなら、現在のボランティア団体やNPOの位置づけはあまりに曖昧です。本来は行政が担うべき作用を、これらの民間団体が乏しい予算(乏しい補助金や助成金、そして、乏しい寄付で成り立っています。)で高齢者や生活困窮者の生活扶助その他の公益的な活動を担い、事故が起きた時には団体やその責任者だけが厳しく糾弾される(逆に言えば、行政は自らがすべき任務を乏しい補助金(行政自らが行おうとすれば、職員数人の人件費で消えてしまいかねない程度の額)で民間に委ね、事故の責任も一切負わない。)ということがあるならば、もはやこの国では民間のボランティアやNPOは立ち行かなくなってしまう。少なくとも、その気概はそがれてしまう。

  そう感じずにはいられないのです。

7 生存権を、憲法に書かれた絵に描いた餅ではなく、実質的にも保障するためにどの程度の福祉国家を目指すのか、どの程度の人員と予算を社会福祉や社会保障政策に宛てるのかは、結局のところ、民主主義の原理、つまり、国会で国家百年の計を立て、必要な法律を整備し、財源を確保し、予算を立てて臨むべき事柄です。

  同様に、民間ボランティアやNPOにその一部を担ってもらう際には、必要となる活動資金を確保するだけではなく、ボランティアスタッフやNPO職員の物心両面の安全確保も議論する必要があります。志ある人たちが、行政作用の一翼を担う公益活動をしているにもかかわらず、予算不足のために安全対策が講じられず、法的責任だけを負わされることなど断じてあってはならないからです(このことは、ヒト、モノ、カネがそろった状態で公務員が公務遂行に際して他人に損害を与えた場合でも、国家賠償法上、公務員個人は損害賠償責任を負わないとされていることと比べても、当然議論しなければなりません。)。

8 このように、今回のような悲惨な事件を二度と起こさないようにするために、そして、志ある民間の担い手たちの意欲をそがないために、生存権保障を本気で議論する必要があると思います。

  折しも国会では、安全保障政策に関連して、憲法に自衛隊を明記すべきか否かが最重要な争点とされつつあります。

  私個人は、権限の範囲を明確化して濫用を防ぐためには立法、行政、司法という三大権力のあり方を明示すればよく、あえてその下に置かれる執行組織や実力部隊を憲法に書く必要はないと考えています(なぜなら、例えば国会であればその組織化にある衆参の法制局であるとか衛視などを憲法に書く必要はありませんし、裁判所だってその組織の下部機関をいちいち憲法に書く必要などないことは疑いの余地もありません。内閣も同様であり、現に、警察だって消防だって、憲法に明記などされてもいません。むしろ、下部機関のことは、憲法で縛られた各国家権力がその責任で管理監督すべきことは明白だからです。それにもかかわらず、警察や消防と同じように行政機関の下部組織であり、実力部隊である自衛隊についてだけ、かわいそうだとか「自衛隊さん、ありがとう」などという理屈で憲法に書かないといけないかのような議論は、あたかも部下(の不満なども含めて)をコントロールできない上司の言い訳のようにも思えるのです。それ以外にも言いたいことはありますが、この点は別の機会に譲ります。)。

  その点は措くとしても、国外の脅威を煽る以前に、この国では、内側から安全保障が根底から脅かされているのではないかと思うのです。

  なぜなら、生存権は、英文にあるとおり、社会福祉や公衆衛生の問題だけでなく、「security」の問題であり、ここでのセキュリティは通常は社会保障と訳されますが、社会保障の最低限の土台は生命・身体の安全であって、今回の事件は、生存権の中でも、その最低限度の土台が保障されていない、揺らいでいるのではないかと想起させるに十分だからです。                                (2018.2.6)