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No. 36 ~人権って、なに?‐終戦記念日に思う~|大分県中津市弁護士中山知康

もう20数年前のことではありますが、法律家を志し、司法試験の受験勉強をしていたころ、「人権って、一体なんだろう」と、真剣に悩んでいたことがあります。

しかも、その悩んでいた時期は、勉強を始めて間もないころというわけでもなく、むしろ、もうかなり深く勉強をしていたはずの時期で、現に、その後まもなく司法試験には合格しました。

しかし、それでも、勉強すればするほど、考えれば考えるほど、人権の本質というか、神髄が、どうにもつかめていない気がして、自分には「センスがない」のかもしれないと感じていました。そして、「そういえば」という感じで、かつて話を聞いたことがあった著名な憲法学者の先生が、「憲法はセンスだ」、あるいは「人権感覚はセンスだ」というようなことをおっしゃっていたことを思い出し、本当に自分にはセンスがないのかもしれない、向いていないのかもしれないなどと考えて、悶々として過ごしていました。

このように悶々としていたのは、それまでの自己評価としては、自分は憲法は得意だとか、人権感覚は十分に備わっているという、ある意味大きな勘違いをして、青春時代を過ごしていたからでした。

というのは、私は、高校では理系の大学への進学を志してはいましたが、中学生のころから、社会で生起する様々な事件や出来事に、どちらかというと関心は強いほうだったと思いますし、知りたい気持ちが強くて、毎朝、新聞も読んでいましたし、権力とか弱者というキーワードには敏感でした。そのせいだと思いますが、滑り止めと言っては失礼ですが、国立大学以外で唯一受験したのも早稲田大学の法学部でしたし、そこに合格してそのまま進学し、特に、3年生、4年生の時には憲法ゼミを専攻していました。ただ、そのゼミでの勉強態度は、教授には失礼ながら、出席さえもまちまちで、あまり芳しいものではありませんでしたが、それでも、2年間、教授の専門分野である生存権と平和主義(憲法25条と9条)については、薫陶を授かったはずでした。

そういうこともあって、憲法を学ぶことも考えることも好きだったはずなのですが、どうしても肝心のところで実感がわかない、わかった気でいるだけで分かっていないのではないかという感じがして仕方がありませんでした。基本書を読んでも(我々の業界では、法律学の教科書のことを基本書と呼んでいます。)、表面的な、上っ面の、まさに字面だけをおっている気がして仕方がなかったのです。ですから、著名な憲法学者の基本書を何度も読み返してみても、そこに書いてあることは一応わかるのに、おそらくその行間に書いてあるはずの、その先生が心の底から思っていて、それを守るためにこうすべきだとか、こうあるべきだという根幹の何かがわからずに悶々としていたのです。

ここで書くべきことではないので簡単にしか触れませんが、法律学は技術的な面も多々あります。憲法学も同様で、観念的な人権理論を学び、構築するだけでは不十分で、現実に人権侵害がなされているのではないかという問題が起きた時に、それにどう向き合うのか、どのようにして人権侵害の有無や憲法違反であるか否かを判断するのかという訴訟技術的な学問体系も不可欠です。ただ、ほかの実体法(民法、刑法、商法などのことです。)の場合には、それに相応する訴訟法があるものの、憲法には実定法としての憲法訴訟法がないということもあって、当時は憲法訴訟あるいは違憲審査基準という概念が司法試験受験生の間でも強く意識されていた時代でした。そして、そこでは、立法や行政の誤りに対して司法はイニシアティブをとって積極的にただす方向(語弊を恐れずに言うと、司法積極主義といいます。)でいるべきなのか、それとも、立法や行政の判断を尊重して明白な誤りだけを正す方向にとどめるべきなのか(反対に、司法消極主義といいます。)ということや、それと関連して、違憲審査基準は厳格であるべきなのか、緩やかであるべきなのか、どの問題に対しては厳格な違憲審査基準を用い、どの問題に対しては緩やかな違憲審査基準を用いるのかなどということが、憲法学を学ぶ上で大きなウェイトを占めていた気がします。

ただ、そうした技術的な問題がクローズアップされる反面、そうした技術論(本当は技術論なのではなく、どのように人権問題に向き合うかという姿勢やスタンスが問われているのだと思いますが)の奥の、何のために、厳格あるいは緩やかな違憲審査基準を選ぶのかという、その何かが、実のところ分からないままでいたのです。

そうしたときにふと思ったのが、読んでいる本を書いた憲法学者の先生たちは熾烈な戦争体験を経ていて、そのうえで、だからこそ絶対に守るべき人権と、そして、それを守るための(侵害しないための)国の装置を考えているということ、逆に、そうした経験がない私は、根っこの部分で、人権を守るということの意味や価値が全く分かっていないということでした。

考えてみれば、生まれた時から当たり前のように、読みたい本を読み、知りたいことを知り、考えたいことを考え、言いたいことを(遠慮しながらも)言い、現に、様々なプレッシャーはあっても、バブルの一番いい時に就職もせずに、のほほんと司法試験を受験している私に、その逆の時代に生きた人たちの気持ち、つまり、自分で自分のことを決められないし、決めたとおりに行動することも許されなかった人たちの気持ちがわかっているはずがなかったのです。

私が基本書を読んでもどうしても行間の意味が分からないと感じていたのは、たぶんそこだったのだと思います。

誰からも(特に、時の権力から)干渉されずに、自分の好きなことを学び、自分の考えを持ち、それを実際に発言したり、自分が好きだと思うものを選び、そうしたことに充実感や満足感、ひいては生きがいを感じて生きていくということの有難みを、実感したことがなかったために、人権を守るということの意味も全くわかっていなかったのだと思ったのです。

そう考えた私は、単純ですので、暗澹たる気持ちになりました。戦争など起こってほしくはないけど、でも、戦争を経験しないと、というより、戦争のような究極の人権侵害の時代を経験しないと、人権の有難みはわからないのかと考えたからです。

でも、それは間違っていました。人間には想像力があります。直接経験したことではなくても、人から話を聞いたり、本を読んだりすることで、完全ではないにしても、その経験に迫ることはできます。もちろん疑似体験は疑似体験であって、それですべてわかった気になるとしたら大間違いなのだと思いますが、考えないよりも、想像しないよりもよっぽどましだと思うのです。

そして、私は、こう思うようになってから、少し気が楽になりました。それは、私が人権の意味を考えても実感がわかなかったことの本質的な理由がやっと分かったこと、また、やはり自分は何もわかっていなかったことが確認できたこと、さらに、想像することで少しずつでも、基本書を書き、人権の大切やそれを守るための装置を考えてきた憲法学者に近づけるのではないかと感じたからです。ですから、その時以降、戦時中にあったことを、日本国内外で起こったことを、法律とか制度を考えるという、ある意味、上からの視点ではなく、加害・被害ともに、そこにいる人たちがどう感じていたかを想像するようになりました。想像は自由ですので、戦争時だけでなく、それ以前の時代、封建制度の時代下での暮らしも想像しましたし、そうした中で起きた一揆や、ヨーロッパでの市民革命の意味なども、改めて考えることができました。本当は、それまでにも歴史の勉強で教わっていたはずなのですが、きちんと考えていなかったことのツケが回ってきたのだと思います。

今でも、本当の意味で、人権の価値が分かったとは思っていません。

ただ、前述の憲法学者が言っていた「人権感覚はセンスだ」という言葉のセンスという意味は、どうやら天から授かった才能を指すものではないらしいということは実感しています。センスは、磨けば、努力すれば、培われるのだと思っているのです。後日談ですが、その憲法学者も言っていました。人権感覚はセンスだということの意味は、どれだけ考えたかということなのだと。

話が長くなりましたが、タイトルに戻すと、終戦記念日は、まさに何があったかを考える、想像することを続けるために、毎年あるのだと思います。

もちろん、人によっていろいろな考え方がありますが、その時代に制度とか国がどうあったか、これからどうあるべきかという大所高所の問題を考える前に、その時代に何があったのか、そこに暮らしていた先人たちは、ご先祖たちはどういう気持でいたのかを想像する機会にしてみてはいかがでしょうか?           (2017.8.15)