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vol.12~集団的自衛権と憲法解釈と立憲主義について(№2)~|大分県中津市弁護士中山知康|

vol.12 集団的自衛権と憲法解釈と立憲主義について(№2)
 



前回に引続き、現在国会で審議されている安保関連法案について、憲法や立憲主義の観点からお話をしたいと思います。

 前回もお話したように、この問題を考えるにあたっては、集団的自衛権の必要性の議論と現在の安保関連法案の憲法適合性の問題とは、厳密に分けておく必要があります。

仮に集団的自衛権行使容認の必要性が高いとしても、必要性さえあれば憲法に合致することになるわけではないことは自明の理で、今の安保関連法案が憲法に適合しないなら、憲法を変えるのかどうかまできちんと議論しなければならず、それをしないまま解釈の変更などという方法で済ませることは、立憲主義の死、つまりは独裁をも招きかねないからです。

そして、私が、今の安保関連法案について、日本国憲法に適合せず、違憲であると考えていることは前回お話ししたとおりです。

 そこで、今回は、集団的自衛権が必要であるか否か、今審議されているような安保関連法案が本当に必要なのかどうかについてお話しします。

私は、集団的自衛権の行使の場面として現在議論されているものは全て、個別的自衛権で対応可能であり、ここから集団的自衛権の必要性を導き出すことは困難だと思っています。

なぜかというと、政府の説明では、今認めようとしている集団的自衛権による武力行使は、簡単に言うと、他国への武力攻撃でも、それによって、日本の存立が脅かされる(国民の権利が根底から覆される)明白な危険がある場合に限定されるということなのですが、他国への武力攻撃で、日本が武力攻撃されたのと同じくらい日本の存立が脅かされる事態とはいったいどのような場面なのかが全く想像できないからです。

この点に関しては、私の想像力が足りないと言われればそのとおりなのかもしれませんが、他国への武力攻撃でも、日本も標的になっていて、現に日本に武力攻撃が迫っているというのであれば、それは従来からの個別的自衛権の問題になります。他方で、他国に対する武力攻撃で、日本は標的にはなっておらず、日本に武力攻撃が切迫しているわけでもないとすれば、この場面で、日本の存立が脅かされる事態というのは一体どういう場合なのでしょうか?日本の何が脅かされるというのでしょうか?

このような場面で、つまり、今政府が集団的自衛権行使の場面として説明しているような場面で、日本にも及んでくる危険というものを考えたとき、一言でいうと、それは武力攻撃そのものによる危険ではなく、日本以外の国が攻撃されたことによる国際的な波及効果ないし間接的効果であり、突き詰めれば、日本の経済活動や国際政治的な立場が悪くなるなどといったものに過ぎないのではないでしょうか?

もちろん経済活動や国際政治的な立場は守られなければなりませんが、それと自衛権とを同列に論じたり、天秤にかけたりすることはできません。

経済活動や国際政治はまさに外交交渉の場面であり、相手が日本に対して武力攻撃もしていないのに、経済的な危機とか政治的立場の危機とかで、日本が自衛権として武力を行使することなど、そもそも許容されるのか、そして、それが本当に必要なのかを考えるべきなのではないでしょうか?

日本の経済活動を守るために、自衛権の発動として武力行使をするなどという理屈は、少なくとも、これまでの日本の自衛権の議論からは大きく外れていますし、自衛権という言葉の意味からも外れています。

今一度、冷静に、考えてみる必要があると思うのです。

 ところで、国連憲章では、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が必要な措置をとるまでの間、加盟国は個別的・集団的自衛権を行使できる。加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない(第51条)。」とされています。

つまり、国連憲章上、自衛権はもともと、まず他国からの武力攻撃があることを前提として成立し、さらに、国連安保理事会が乗り出すまでの時限的・補充的な手段と位置づけられています。

こうした自衛権について、日本は長らく、個別的自衛権は認められるが(ただし、日本国憲法9条と整合する限定的な範囲で)、集団的自衛権は認められないという立場を堅持してきました。

日本国憲法を字義どおり正しく解釈すれば、そのような解釈になるのは当然だと思います。だって、日本は、陸海空軍その他の戦力を持たず、交戦権も認めないと高らかに宣言しているのですから。その中で行使できる自衛権というのは、当然ながら、相当程度限定されたものとなります。

そして、日本の憲法解釈上許容されてきた自衛権の必須キーワードは、他国等からの武力攻撃によって日本そのもの(国民を含めて)の存立が脅かされるということだったはずです。つまり、他国からの武力攻撃と日本の存立の危機とが直接的な因果関係でつながっていることが必要不可欠とされてきたのです。

でも、今政府が言っているのは、他国からの他国に対する武力攻撃で日本の存立が脅かされる場合ということなんですが、(日本の同盟国とはいえ)他国に対する武力攻撃であれば、その結果、日本が経済的に困るということはあっても、その武力攻撃で日本そのものの存立が脅かされているというのはやはり想像できないと思うのです。なぜなら、その他国に対する武力攻撃と日本の存立の危機とは間接的な因果関係でしかつながっていないのですから。

 集団的自衛権の本質は、日本と他国を一つの国とは言わないまでも、一つの強固な共同体とみて、その共同体に対する攻撃であれば、日本が標的となっていなくても武力行使して援助できるというもののはずですが、これが日本国憲法上許されていないことは文理上明白で、それをごまかそうとするから、今の政府関係者の説明のような、何度聞いてもよくわからない、変なものになるのだと思うのです。

以前、テレビの街頭アンケートなどで、「友達が攻撃されている時に助けないのは・・・」などと言った意見を見聞きしましたが、助けることと武力攻撃に加担することとは別の問題です。

私たちが家庭や学校、そして、社会で教えられ、学んできたことは、誰かが攻撃されていたら反撃することではなく、それ以上の攻撃を回避する方法を模索しつつ、警察や近所の人などを大声で呼び、助けを求めることではなかったでしょうか?それとも、そのようなやり方自体が平和ボケで、喧嘩には喧嘩で応酬するのが現代では正しいということなのでしょうか?私たちが住んでいる世界はそんなに野蛮なのでしょうか?

さらにいうと、現代の戦争に終わりはありませんし、勝ち負けだってつけられません。そして、莫大な戦費もかかります。既に1000兆円以上もの国債を発行している日本に、そんなお金があるのでしょうか?

それらを前提としながら、それでもなお、日本は武力攻撃をする国に変身したいのでしょうか?

 最後に、現在の安保関連法案が日本国憲法や立憲主義に違反するという憲法学者らの声明に関連して、ネット上では「憲法があって国家があるわけではない。」とか、「国家の危機に憲法は役に立たない。」などといった意見を見ることがあります。

しかし、それを言うならそもそも論として、国があって人間がいるわけではありません。国家のために人間がいるわけではないのです。個人個人の人間がいて、国があるのです。

国の存在意義に関する考え方は様々ですが、いずれにしても、現代において、個人の人権を抜きにして国の在り方を考えることはできません。そして、個人の人権を守るために、国家権力の暴走を止め、国家権力を縛るものとしての憲法があるのですから、憲法が先か国が先かなどと議論しても意味がないと思うのです。人が先にあって、人のために、憲法も国も存在するのですから。

さらに言うと、「外敵からの脅威に対抗するため」という理屈で安易に国家権力に対する歯止めや監視を弱めれば、いつでも容易に独裁国家を生むことができることにもなってしまいます。なぜなら、常に外敵を想定し、あるいは実際に外敵を作っておきさえすれば、国家権力にとっては監視や歯止めもなく、安泰という状態を維持することができるのですから。

外敵も脅威かもしれませんが、国家内部の権力組織も、個人にとっては同じ程度に、あるいはより身近で、常に、危険があるという意味で、もっと脅威ではないかと思うのです。

「非理法権天」という諺がありますが、これは近世の日本、つまり江戸時代の日本の世相を表した言葉と言われます。その意味するところは、非は理に劣り、理は法に劣り、法は権に劣り、権は天に劣るというものですが、現代の国家で、権力が法より強く、権力者を縛るものが天(の神様)しかないなんて、怖ろしいと思いませんか?

(2015.6.19)