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vol.7~エゴイズムと正義感と子どもの貧困~|弁護士のつぶやき|大分県中津市弁護士中山知康

vol.7エゴイズムと正義感と子どもの貧困


芥川龍之介が自身の小説「羅生門」でテーマとしたのは,「生きるためにあえて冒す悪事」とその背後にある「人間のエゴイズム」であるとよく言われます。もちろん,これ以外にもテーマはありそうです。例えば,生者のために死者の屍を利用することの倫理的是非とか,何らかの拍子で簡単に一線を越えられるという意味での個人のモラルや倫理観の脆弱さとかです。この中で,今日は,生きるための悪とエゴイズムについて,少しだけ考えてみました。

古来より,無秩序あるいは無政府状態に陥ると,人間社会はまさに力こそ正義の状態になって,弱肉強食の世界になると考えられてきました。著名な法哲学とか政治学の書籍に限らず,例えば,有名な漫画である「北斗の拳」でも,核戦争後の無政府状態,混とんとした世界を背景に,暴力が吹き荒れる様が描かれています。映画などでも,無政府状態下の暴力や混とんが度々取り上げられています。そういえば,西部劇も,一種の無政府状態を描いたものといってもよいのかもしれません。なぜなら,西部劇の多くでは,高度な文明と武器を背景に正義を自称する保安官や白人が,未開で野蛮な(と描かれている)インディアンを懲らしめ,秩序を守るという設定になっていますが,これはまさに,西部開拓時代のアメリカ西部が無政府であり,酋長という力が支配する世界として考えられているように思われるからです。

ただ,本当に,無政府状態や無秩序は,暴力が支配する世の中を招くのでしょうか?そもそも完全な無政府状態とか無秩序というもの自体,局地的に,かつ,一時期に限っては起こりうるものですが,完全な無政府状態とか無秩序は観念的なものであって,いわばフィクションです。この点はひとまず措くにしても,無政府状態では当然に弱肉強食の世の中になるとまでは,必ずしも言えないのではないかという気がします。例えば,インディアンに対する誤解と偏見の多い西部劇の世界観についていえば,インディアン社会は,白人社会が侵入し,支配するようになる以前から,基本的には話合いによる民主主義的な運営が行われていたと聞いています。北斗の拳でも,主人公ケンシロウを中心にして,武力も使うのですが,友情と信頼関係を基軸にして暴力集団と対決して行きます。

話を元に戻すと,羅生門で描かれている世界は,平安末期の,飢饉や災害が頻発する混とんとした世界,即ち,一種の無政府状態です。そして,その無政府状態の中で,主人公は,羅生門の中で死体から髪を抜いている老婆を見かけ,一度は憤慨するものの,最後は自ら追剥となって老婆の衣服を奪って立ち去ります。その意味では,まさしく無秩序の中の暴力が支配する世界であり,自らが生き残るために他人を犠牲にするという人間のエゴイズムが描かれています。

ただ,そのような行動に出る前,主人公は,ちゃんと仕事に就いて,倫理観を持って真面目に生活していました。しかし,混乱の世の中で,自らも失業したことで,生きていくためには盗人になるしかないと思い始めます。しかし、それもなかなか決断できずに,主人公は途方に暮れて町を歩き回ります。そうした中,たまたまたどり着いた羅生門で,老婆が死体から髪を抜く様子を見て,憤慨するのです。ここには,人間の一側面が描かれているように思います。失業して孤立し,他人を犠牲にするしかないと思いながらも,そうは簡単に行動に移せないという意味で,本来持っている倫理観や自制心が見て取れますし,また,他人が死体を冒涜するのを見て憤慨する,自然発生的な感情(倫理観,あるいは正義感とも言えるかもしれません。)も読み取れます。その意味では,無秩序に見えても,人間にはやはり,倫理観や正義感,そして,他者を思いやる気持ちがあり,また,社会の中で他者と交わって,相互に信頼したり,信頼されたいという欲求があるということが描かれているのではないでしょうか?

もちろん,貧すれば鈍するという言葉があるように,究極の貧困や無秩序は,人間の理性や倫理観をも蹴散らし,悪事に走らせるのかもしれません。その意味では,生きるための悪を否定し,人間の一面でもあるエゴイズムを抑え込むためには,究極の貧困や無秩序はなんとしても克服する必要があります。

最近,本屋さんでよく目にするのが,子どもの貧困にまつわる書物です。大人のライフスタイルの変化や夫婦の在り方の多様化,経済構造の変化と非正規雇用人口の増大、こうした子どもには本来責任がない大人側、あるいは子どもを取り巻く社会側の事情の変化によって,多くの子どもたちが割を食っている,さらにそうした状態が拡大し,悪化しつつあるのかもしれません。

今,子どもの貧困とどう向き合うか,どのような施策を講じればよいのか,政治の場面でもようやく議論がなされつつあります。政治の側でも,一刻も早く実効性のある施策を講じてほしいと思いますし,われわれ一般の大人だって,多くの子どもたちが貧困の悪循環から逃れられない現状,つまり,貧困による学力の低下(そもそも学ぶ機会が与えられない。)⇒就職にあたってのハンディキャップ(学力も学歴もないため,選べる仕事が限られる,安定した職に就くことが難しい。)⇒大人になっても貧困⇒その子ども世代も貧困により学ぶ機会が得られない⇒・・・・・という状況を,手をこまねいて見ているわけにはいかないと思います。

その上で,願わくは,世界中で,今は手を差しのべられる側かもしれない子どもたちが,いずれは,社会の中で自分の存在意義を認識して,他人と信頼関係を結べるように,そして,貧困や無秩序を回避するため今度は他人に対して手を差しのべられるような存在になってほしいですし,そうした社会を早く作り直さなければと思います。

羅生門の主人公だって,失業し,孤立することがなければ,また,目の前で行われる悪事に対する怒りを共感できる友人がいたなら,きっと追剥にはならなかったと思うのです。                                          (2015.4.2)