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大分県中津市弁護士中山の憲法雑記①-個人主義と利己主義



 今日は、1936年2月26日に発生した、いわゆる2・26事件から79年目の日です。2・26事件の解説や評価については、たくさんの書籍があり、また、インターネット上でもたくさんの記述が見られますので、そこに譲りますが、いずれにしても、この事件を契機に、軍部の暴走が強まり、日本は太平洋戦争へと突き進んでいくことになりました。
 
 そこで今日は、太平洋戦争の敗戦によって誕生した日本国憲法のエッセンスについて、簡単にお話ししようと思いますが、憲法を考えるとき、それが護憲の立場であれ、改憲の立場であれ、憲法は何を目的とするものなのかということや、今のような憲法が成立するに至った歴史と経緯、しかも、その歴史や経緯は日本についてだけ考えるのではなく(つまり、大日本帝国憲法や日本国憲法制定までのいきさつだけでなく)、世界の憲法をめぐる歴史(特に、封建主義体制の崩壊から市民革命とその後の憲法制定に至る経緯)などをきちんと勉強し、理解する必要があります。

 そこで、今日はまず、個人主義と利己主義についてお話しします。

 個人主義というのは全体主義の反対語です。そして、全体主義というのは、簡単に言うと、国家や社会といった全体の利益のためには個人の利益は劣後する、場合によっては犠牲にするべきであり、個人の事情や欲求は全体の利益や目的のために従属する、という考え方です。

 反対に、個人主義は、国家や社会といった全体のために、個人を犠牲にすることはできない、個人を最大限尊重しなければならないという考え方ということになります。

 日本国憲法は(ほかの先進国の憲法も大体同じですが)、この個人主義を採用しています。13条で「すべて国民は、個人として尊重される」と規定されているとおりです。

 ですから、日本では、単純に国家や社会というものを持ち出して、個人の自由や権利を制限することはできません。もちろん、現在でも、自由や権利には様々な制約がありますが、それは国家のためでもなければ、社会のためでもありません。少なくとも、正面からそのような理由を主張する人はほとんどいないといってよいと思います。仮に、今、正面から国家や社会のために個人は犠牲になるべきだと主張する人がいれば、時代錯誤とのそしりは免れませんし、下手をすれば、独裁主義やファシズムの信奉者ととられかねないと思います。

 それではなぜ、日本でも、他の同じような憲法を持った国でも、自由や権利には制約が科せられているのでしょうか?

 それは、様々な学説がありますが、基本的には、他人の自由や権利、あるいは安全を侵害しないためです。人間は他人とのかかわりの中で生きていますから、自由や権利を追求していくと、他人の自由や権利を侵害してしまうこともあります。ですから、他人の自由や権利を傷つけないようにするため、正当化される人権の制約もありうるのです。例えば、食品の安全・安心をめぐる法規制も、国家や社会を守るなどといったあいまいなものではなく、消費者という個々人の生命、身体などを守るために存在するものなのです。

 このように、他人の自由や権利を傷つけないために人権の制約が許される場面があるということから、日本は利己主義を採用していないことも明らかです。利己主義というのは、平たく言うと、自分の自由や権利のためには他人はどうなってもいいという考え方ですが、このような事由や権利の使い方は許されないのです。その理由は、既に述べたとおり、他人の自由や権利を傷つける権利は誰にもないということになりますが、もっと言うと、みんなが自分の自由や権利のために他者を犠牲にするようになれば、まさしく無秩序になり、場合によっては新たな独裁や人権侵害的な権力の誕生を許しかねず、自由そのものも意味を失うことになりかねない、その意味で、自分の自由や権利を守るためにも、自由や権利を濫用しない責任があるといえると思います。

 このように、個人主義VS利己主義という問題を考えると、自分の自由や権利行使に際しても、他人への思いやりが必要ということに行き着きます。私は、これまで、この「弁護士のつぶやき」で、男女別の制服が定められていることへの疑問であるとか、幼稚園や小学校が迷惑施設などと言われることへの疑問などを書いてきましたが、突き詰めると、制服問題は、性同一性障害の人が近くにいないとかそういう人たちの気持ちを普段考えたことがないことからくる、他人への思いやりや想像力の欠如の問題ではないかと思っています。また、幼稚園や小学校の問題については、地域のつながりやコミュニケーションが希薄になっていることからくる双方の行き違い、ちょっとした思いやりの欠如の問題ではないかと思っています。

 ただ、もう一つ深刻な問題だと考えているのは、イスラム風刺画をめぐる問題です。私は、宗教についても、例えば、教義と実践、あるいは社会とのかかわりなどについては批判の対象となるべきで、批判そのものを封じ込めることはおかしいと思っています。しかし、他方で、信仰は、場合によってはその人の根幹や尊厳にもかかわる問題であり、それにもかかわらず、信仰そのものを否定したり、揶揄したりすることはおかしいと思っています。その意味で、ムハンマド風刺画は、イスラム教徒にとっては耐え難いものであり、こちらが信仰していないからといって、揶揄したり、屈辱を与えるような言動は慎むべきだと思っています。

もっとも、だからといって、それを理由に表現の自由を規制すべきというものではなく(表現の自由は民主主義の根幹ですから、その規制はよほど慎重でなければなりません。)、表現者において、自らの責任で、他人を不必要に傷つけていないかを常に吟味し、考え続けるべきだと思います。それこそが、権力の介入や干渉を防ぎ、自分たちの自由や権利を守る戦いだと思うからです。                 (2015.2.26)