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衛生対策
1 先般、「♯検察庁法改正案に抗議します」というタイトルで、SNS等にたくさんの意見が発表されていました。
その成果と言っても過言ではないと思いますが、政府与党が強行しようとしていた検察庁法の改正案は、否定的な世論の高まりを受けて、結局、政府与党の断念により廃案となりました。
2 先日のこのブログでも書きましたが、政府与党が強行しようとしていた検察庁法改正案は、検事総長等の重職にある検察幹部の定年を政府の判断(即ち、裁量)で特例的に延長できるようにするという、むしろ「改悪」、あるいは「暴挙」とでも呼ぶべき部分を含むものでしたので、廃案となったことは当然であり、私も胸を撫で下ろしました。
もともとは今年の1月に政府が特定の検事長の定年延長を閣議決定したことに端を発した問題ですが、あたかも時の権力者(内閣)の判断(解釈変更という手法)で、実質的な法改正ができたかのような態度を取ったことは、民主主義を否定しかねないものです。また、検事長という地位・役職は、司法権の行使に密接不可分なものですので、特定の検事長について内閣の判断で特例的に定年延長を図るとうのは、権力分立(小学校でも習う、立法・行政・司法の三権分立や司法権の独立)にも反することが明らかだと思います。
ともあれ、今回は、問題の多い検察庁法改正案は廃案となりましたので、今日は、これに付随して問題となった別のお話をしたいと思います。
3 前述のSNS上の抗議運動(ネットデモ)を巡っては、特に声をあげた芸能人に対して、芸能人が政治的な発言をするべきではないとか、よく知りもしないで発言するべきではないなどという批判が、これもネット上に溢れることとなりました。
また、前述の抗議運動とは関係ありませんが、ほぼ同じ時期に、ネット上のリアリティ番組での言動を巡って著名人がネット上で批判され、自殺に追い込まれるという事件も起こりました。
この二つの事態は、相互の関連性はないものの、ネット上での批判はどこまで許容されるのか、反対に言えば、ネット上での批判はどこまでが言論の自由として保障されるのかという問題提起をしたという意味で共通する面を持っています。
4 問題となったネット上での批判は、多くは匿名性を持っています。
匿名なので、自由にものが言えるということの反面、無責任で過激な誹謗中傷も横行しかねない危険性もはらんでいます。
それゆえ、ネット上の表現行為の悪しき側面ともいうべき無責任で過激な誹謗中傷を抑制すべきではないか、そのためにはどうすればいいかという問題提起がなされているのです(かなり以前から問題とはなっていましたが、今回改めて議論の俎上に上ったと言った方が正確かもしれません。)。
5 まず、前述の、芸能人が政治的な発言をすることの是非については、いうまでも「是」だと思います。
芸能人も市民です。自らの生活や仕事、様々な経験を通じて身につけた知識などに基づいて、自らの価値観や考えを持つのは当然ですし、それを表明する自由も当然持っています(参政権も持っている方が大多数でしょうし、参政権の有無にかかわらず、表現の自由は保障されなければなりません。)。
それにもかかわらず、芸能人が政治的な発言をすべきではないとか、よく知りもしないで発言するべきではないなどという批判は、的外れという域をはるかに通り越して、ともすれば民主主義そのものを否定しかねないものだと思います。
もちろん、著名人が政治的発言をすることによって、他者に影響を与えるということはあるでしょうが、それは受け止める側の問題(自ら考えるという態度や習慣の問題)でもあります。
影響力のある人が間違った事実認識のもとに事実に反する表現行為を行った場合には、当然ながら一般の人よりもたくさんの人たちから批判されたりするでしょうし、また、間違った内容の表現行為はそもそも是正されるべきですが、そうだとしても、芸能人とか著名人というその人の属性によって表現行為そのものが批判されたり、委縮させられるべきではないと思うのです(その人の属性によって表現行為が規制されるのは、憲法上、天皇などの例外でしかありません。)。
ですから、芸能人や著名人の政治的発言をやり玉に挙げるのは、そもそも間違っていると思います。
6 また、政治権力を握った人や団体に対する批判は、根も葉もないデマでもない限り、正当な表現活動として保障されるべきことも当然です。
なぜなら、政治権力を握った人や団体は、常に監視に曝され、批判されなければ(監視・批判が自由に行えなければ、反対に言えば権力者はそれに耐えなければ)、権力の濫用を抑制できなくなり、ついには権力の腐敗、ひいては独裁政治を招来しかねないからです。
香港における民主化運動やデモを抑制しようとする中国の国家安全維持法が、世界中で今、抗議されたり、重大な懸念を表明されたりしているのは、そうした問題意識からです(民主主義を標榜する社会では、ゆめゆめ同じような愚を犯してはならないという警鐘でもあります。)。
7 上記のような政治的表現の自由は、民主主義社会を自負している以上、何を措いても保障され、最大限尊重されなければなりませんが、これに対して、今、問題となっているのは、一般の人(著名人でも、政治的権力を握っていない人はこれに含まれます。)に対するネット上の過激な誹謗中傷やレッテル貼りによる攻撃です。
表現の自由は何を措いても保障されるべきですが、他方で、他者の人権、人格権を損なっていいというものではありません。表現の自由が何を措いても保障されるべき場面は権力との関係のことであって、権力者ではない他人の人格権を傷つけることに対しては、当然ながら民事・刑事の責任が発生するのです。ヘイトスピーチの問題も同様です。
もちろん、いかに問題のある表現活動であっても、事前の検閲などは極力差し控えなければなりませんが、事後の民事・刑事の責任の問題は別です。
8 もっとも、誰が問題のある表現活動と認定し、民事・刑事の責任を問うのかは、極めて重要な問題です。
なぜなら、内閣などの行政権(当然ながら、監督官庁である総務省を含みます。)が、特定の表現活動について他者の人権を侵害するものとして規制できることにすれば、内閣等の権力者にとって不都合な表現活動が不当に規制される恐れが大だからです。
そのため、現在は、表現活動によって人権を侵害された人が裁判所に救済を求めるという建付けになっているのです。
9 問題は、こうした司法救済を求めるにしても、これまでは個人の人格権を侵害する表現活動をした人が誰なのかが、ネット上のものに関しては特定が難しく、時間と費用ばかりかかるため、泣き寝入りをせざるを得ないことが多かったということです。
そこで、現在、議論されているのは、ネット上の匿名の表現活動のうち、他人の人格権を侵害する表現活動について、より簡略かつ迅速にその発言者・発信者を特定し、その責任を問いやすくしようというものです。
もっとも、簡略かつ迅速に発言者・発信者が特定できるという制度は、悪用されれば保障されるべき表現活動をしようとする人に対しても、一定程度委縮効果が発生するおそれはあります(権力者に対する批判など正当な表現活動をする人に対して莫大な金額の支払いなどを求める、いわゆるスラップ(恫喝)訴訟が提起される恐れがあるからです。)。
10 ですから、現在議論されている誹謗中傷を抑制するための制度についても、それによって不当に表現活動が抑制されないか、委縮効果が発生しないかを慎重に吟味する必要があり、特に、誹謗中傷を抑制するという名目で、実際には最大限保障されるべき表現活動が犠牲にならないかを常に考え続けなければならないと思います。
(2020.7.2)